家族と会社

ガラス窓の大きなビルの一階で夜、花見をしている会社があった。持ち込んだ桜が飾られ子供がまわりで遊んでいる。普段はオフィスビルなのでビニールシートを敷いていた。身なりのよい服装の両親が近くに座る。
似た記憶がある。子供の頃、友達のお父さんが有名なメーカーに勤めていた。年に一度の社員の慰労会が都内のホテルで開かれてそこに招いてくれたことがある。料理はおいしかったし大きなビルだったので友達といっしょに夢を見るような経験だった。

その日、花見をしていたビルの家賃はかなり高く、その夜もそのビルで働く派遣社員、嘱託社員の低待遇、犠牲が隠されている。一方で花見をする人々も白髪まじりで、子供とはだいぶ年がはなれている。金曜の夜だというのに、家で家族団欒とはいかず、複雑な心情で子供をビルにつれてきた人もいたかもしれない。一方、忙しく働く両親の職場を子供に見せる貴重な機会になっている人もいるのかもしれない。

桜は、寒い外で土の上で見上げると綺麗だ。

会社はほうっておくと、人の時間を奪い続けていくものかもしれない。父親、母親の時間だけでなく、家族一緒の時間をも。

産業とは、業を産みだすもの。罪つくりなものかもしれない。それでも食べていくためにわたしは、それを是とする。是とすると失うもの、ふつうの幸福感も、業を非とすれば転落、貧困が口を開けてまっている。豊かさが土台として存在すること。それを守るためには、業を行うものを規制なく自由に活動させすぎてはいけない。自由に活動させることが、そのもの自身へ不幸としてはねかえる。一方で不自由感は不幸というよりも不満足感を生む。パラドクスをうけとめればよいのか、あるいはパラドクスの秘密をほどけばよいのか。わからない。