日経BPクラシックス

「マネジメント 務め、責任、実践III」ピーター・ドラッカー著、有賀裕子訳(isbn:9784822246594 2,400円)が良かった。著者が生き生きと読み手に語りかけてくる。岩波文庫の巻末に掲げられている理念の後継者によると思われる文が、日経BPラシックスの巻末にもある。教養としての古典ではなく、現実に直面し、解決を求めるための武器としての古典というスローガンである。10年前に読んで影響を受けた新教養主義宣言」山形浩生著(798円)もそうだ。

本題に入る。ドラッカーは、第二次世界大戦の戦前、戦後に巨大化し今も世界中で活動する企業の在り方に大きな影響を与えた人物である。この本は、彼が何を考えていたかを教えてくれる。なぜ今こうなっているのか、その原点を知りたい人に示唆を与えてくれる点で貴重である。翻訳も一新されている。

原著が発刊された1973年の時点で著者の目に映った日本企業の組織の姿とその未来像は驚くほどあたっている。また、詳細は省くが、外国人である彼の目に映る日本企業の姿というものは常に示唆に富む。

  • 三菱の岩崎に見られるように、日本の大企業は柔軟なシステム組織を100年前から取り入れている。
  • 企業、大学、役所がそれぞれ生き物のように関係性を変えながら協調する。一方で、多大な時間を話し合いに費やす必要があるため効率の面では職能型組織、チーム型組織、連邦型の分権制組織などに比べてはっきりと劣る。効率が悪い。
  • 商社や合弁企業が、異文化との橋渡しを行っている。
  • 前近代的な自営業、街工場と、モダンな大企業の経済は全く異なるが、この二重構造が維持されている。ゆるやかに近代化を押し進めている。


日本の江戸から明治への変遷という特異な事情については広く議論が行われているのでここでは取り上げない。彼の思想の根底に、20代でファシズムの独裁者へのインタビューを行った経験、そして自由と民主への渇望があると思えてならない。これを取り上げたい。例えば、彼は、日本企業で広く取り入れられているMBO(目標による管理制度)を生み出した本人とされている。企業の投入より産出が多くなければならないという使命と、個人の自由な活動による成果の追求、この両者の調律のためにはMBOが必要だと述べている。一方で、MBOは極めて難しく、成功例は少ないとも注意している。私は彼が自由のためにMBOを生み出したという点に感銘を受けた。私個人は、MBOが導入された企業で対象職種が上位から新入社員レベルまで拡大する過程を10年間見てきた。MBOはやはりとても難しい。視野が狭くなる息苦しさを避ける工夫は欠かせないと感じている。

この息苦しさは、現代社会が陥りやすいニヒリズム、無関心、マニュアル主義、個別最適と全体最適トレードオフの誤り、同一社会における近代性と前近代性の多様に混在することへの無理解、エゴイスティックなグローバル化欲求に対する心理的な抵抗、反抗に基づく。これらは全て自由の反対にいるもの、現代の暴力もしくは傲慢であり放置できない。暴力と傲慢に闘争をつづけてきたものこそが民主なのだと考える。

民主には秩序が必要で、秩序は人を不幸にもするが、秩序なしに、人は自由も民主も達成できない。2000年以上前に、論語の中で孔子は、政治や社会を気にする前に自分の共同体を気にせよ、自分の共同体を気にする前に、自分の家族を気にせよ、と言った。しかし、一人の一生はあまりに短かく家族愛、郷土愛、組織愛に身を捧げるだけでは、一方で無自覚に暴力を行ない続けるだけではないのか。

否、封建主義も、全体主義も、民主主義も、ある瞬間、ある場所、ある物理的制約のもとでは正義であり暴力でもありうる。相対論を言うつもりは全くない。相対的だからどうでもいいのさ、ではなく、どうであるか、どうするかが自由と民主の問題なのだと考える。

人の行動、選択には期待があるから予期をする。無期待の生は生きるに値しないゾッとしたものだろう。即ちリスクとは自然であり、リスクは減らすものでも増やすものでもなく、最適化するものでもない。選択するものである。問題は、それを意識するかしないか、その選択も、わたし次第であり、あなた次第であることだろうか。しかし、選択をする限り、希望はある。字としては希望というよりも、期望が生きる者として、ふさわしいと思う。

誰しもが、選択し創造できる場、そして選択をしない限り絶対に、手に入らないもの、その原点が家であることは、封建主義が存在しないように見える現代社会でも、動かしがたい事実と思う。人は人である前に動物なのだから。企業人の使命も、人が居場所を持つことを後押しできないのであれば、全く不毛だ。