ヒトが持つ顔には男、女といった顔、父、母としての顔、職業人としての顔、様々あるが、近代的な概念として「市民」としての顔、「国民」としての顔、また地域に暮らす「住民」としての顔もある。

経済人が市場の効率性の中を生きるならば、国民は法の中で生きている。それでも祭りのときには昔からのしきたりに従う。百姓とは無数の種類の「姓」を持つ業を営むヒトのことであるが、近現代の我々はなにか理想化された、イデアルな振る舞いをすると想定して作られた制度の中で生きている。

ここにゼロと無限大が等しいような面白さがある。利を追求する経済人は、社会全体をとらえると「いる」ことが学問を通じて検証されている。だけれども、身の回りの誰をみても、24時間経済人らしく振舞う人はいない。経済人というのはどこを見ても「いない」「見つけられない」人のことである。

どこまでも自由に見える。どこにでも秩序があるように見える。この不可思議さ。