ゆるやかに死ぬか、這い上がるか

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100613

郵政民営化を題材とした内容というよりも、もっと広く、日本の旧来型の組織全般の問題点への提言として私は読んだ。

不況下の構造改革は、失業者を生む。だから公共部門で吸収すべきだ。マクロ経済学者たちはこう提言する。一方、破壊と再生を主張する論者は、今こそ無駄を見直すべきだと言う。

政治は可能性の芸術である。政治は可能性の芸術である。これを繰り返したい。可能性という技芸を持つ人こそが政治家である。と強く思う。何故か。

生存競争をしない生き物はいない。適応しつづけるのが生き物だ。破壊と再生の主張者の背骨にあるのは適者生存という原理であろう。

人は共食いや殺し合いはめったにしない。人は協調する生き物であり、社会的な生き物である。公共の経済を唱える論者は、ヒトの本性を信頼している。

ではどちらが正しいか、白黒つけて欲しい。どうするのか。

モラルハザード。倫理の破壊である。公共の経済学者は倫理の破壊を憎む。だからこそ人を死に追いやる失業を憎む。

生命原理。適者のみ生存できる。生存環境の条件緩和は環境変化により無残な結果におわる。生命原理の冒涜は種の死を意味する。と言う。

一方は、目の前でひとつの命が失われる。一方は、種全体が生存の危機にさらされる。

両者は本当に違うのだろうか。同じことを左目でみたか、右目でみたかの違いではないのか。可能性とは何かの答え、それは新しく求めることではない。いま世の中には、既に二つの見方が存在すると考えればいい。これを二つの眼と考えて、どちらも同じように大事にすればいい。それが今私に言えることです。