Anytime, Anywhere

引き続き、第4章「科学の目的と科学理論の性質」を読む。今日書くのは私が理解し考えたことを纏めたものである。

統一的な理解とは何か

物理学は自然界の普遍的な構造を探求する。公理、経験的事実から法則を帰納的に導出するだけではなく、仮説を立て、その仮説が客観的事実を説明し得るかを検証する方法も採る。得られた諸法則には統一を求める。これは科学の歴史を知る人類の知恵に起因するものであろう。
かつてエーテルは存在すると信じられていた。今私がWeb日記を書くパソコンはEthernetケーブルでADSLモデムに繋がっている。Etherはエーテルに由来するが、ツイストさせた2本の銅線上で、電圧の高低を信号として送信できること、そしてツイストさせることで電磁波によるノイズの影響を軽減できることを知っている。現代の物理学がもはや原子ではなく素粒子のレベルで探索を行っているのは、今現在、我々が「実在」すると理論の中で想定している物理量が、より巨視的、もしくは微視的に見れば「見かけ」の上で現れる量にすぎないという可能性を残しているためであり、普遍的な理解を前の世代よりも一歩進めることを基本的な態度としているためであろう。
未来においては、今我々が理解している理論はある上位の理論の一部であることが判明したり、また、ある理論の近似的な理解をしていることが明らかになると考えられる。

因果性、対象性とは何か

満潮、干潮は月の重力によってもたらされる。夜空に浮かぶ月の形と位置は満潮、干潮とは「関係」はあるが「原因」ではないと考える。これが因果性の考え方である。対象性とは、「風が吹き、砂がとび、目くらが増え、三味線弾きが増え、ネコが減り、ネズミが増え・・・結果として桶屋が儲かる」という命題に対して、逆にある桶屋にせっせと通って商売を繁盛させれば、街に風が吹くかという考え方である。ニュートン力学のF = maに現れるF(力)とは質量に加速度を生じさせることのできる源である。力を与えればコップは動きだす。逆に、コップを落として足にあったときの痛みはたしかにコップの質量と足の表面にあたり跳ね返る速度変化が、力として私の足に作用した結果として知覚できる。

客観性の追求

移動する船のマストから落下させたものはマストの下に落ちる理由を説明したガリレオ以来、物理学者はどの座標系で観測しても、いつ観測しても普遍的に得られる事実をつきとめるために、不変量、保存量を追い求めてきた。地球にいながらにして宇宙の過去、現在、未来を思い描くことができるのは、このおかげである。

感想

何かをつくる人は「どのように」作るかにとらわれすぎるのはよくないだろう。「それは何か」というのもとても大事である。そんなことを思った。